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指示待ち人間と自主性の間にある違和感

photo credit: Romain Al'l Tofs_20111208_156 via photopin (license)

この時期になると、様々なメディアに「今年の新社会人は指示待ち人間が多い」みないな記事がよく出てきます。ですが、私は個人的にこのような論調が大嫌いです。

なぜなら、日本の社会では、本質的に多くの人は心のどこかで、指示待ちの人のほうがいいと望んでいるのではと感じる場面が多いからです。

そもそも日本の社会では指示待ち人間であるほうが得なこと多いです。日本人の特質なのかもしれませんが、私の中にも、誰かの指示でやったということで、(間違ったことであっても)自分の責任が軽くなる、免罪符のような気持ちがあります。

福島の原発の問題にしろ、某大手企業の不正会計の問題にしろ、おそらく現場で携わっている人はうっすらと問題を感じとっていたはずです。

ですが、指示だからしかたないと罪悪感に免罪符を与えて、日々仕事をこなしていたのではないかと感じています。そして、社会の側もなんだかんだでそういう人を望んでいた。

影響力のある人間が発した意見によって、世論が一気にそちらに傾くという社会の状況をみても、誰かの指示でやった(誰かの言うこと信じた)から間違ったことをしても許されるという感覚が日本人の気質の中にはあるような気しています。

そこにそれを選択した自分はいないのです。

しかし、自主的に動くということを真剣に考え出すと、人の指示で動くことが苦痛に感じることが増えてきます。

誰の強制でもなくブログを書く行為を続けて来てわかったのは、自分のやっていることが誰かの依頼でやっていることなのか、それとも自分の意思でやっているのかということが明確に自覚せざる得ないということ。

この状況になると、人の指示でやっていることに苦痛を感じる割合が高くなってくるのです。

良い悪いは別として、日本の教育は自主的に動くことと誰かの指示で動くことの境界線を曖昧にしてしまう部分があるのではないかと感じています。

そもそも本当の意味で指示待ちではない人間でなく、自分の考えで動けるような人がいたとして、そういう人を徹底的にパッシングするのが日本人の特性なのは間違いないはず。本質的には「空気を読め」という言葉は「指示待ち人間になれ」と似たようなものだと感じています。

本質的には従順な人間を望んでいるのに、相容れない主体的な人間が望まれているような気がして、私はそこに矛盾を感じるのです。

今週の気になっている本

最近、長く読み継がれいるロングセラーの本やいわゆる名著といわれる本がたくさん Kindle化されています。それれの本を読むと、有名なあの言葉や考え方はここから来ていたのかと今更驚くことがあります。せっかく Kindleで手軽に読書が楽しめるのですからそういう本はどんどん読みたいのですが、私はそういう本がなんのかを知りません。

という訳でまずは世界の名著でどんなものがあるのかを知ることからはじめています。

今日のアクション

新社会人の人たちには、今年の新社会人は○○みたいな感じで、煽って書かれている記事など気にしないで欲しいです。そういうことを言っている側の人は素晴らしい人とは限らないので。

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